「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が、世界文化遺産の登録候補を載せた「暫定リスト」に追加掲載されることになった。県などが提案書に盛り込んだのは五市二町の教会や遺跡20カ所。弾圧・迫害の歴史や信仰の喜びを今に伝える長崎固有の文化遺産の姿を、地域ごとに紹介する。(2007/02-2007/03 西日本新聞・長崎版に連載)
「その民を五島に移住せしめられたし」―。
「キリシタンの里」と称せられる五島列島。江戸幕府による禁教下で途絶えた五島のカトリックが息を吹き返したのは、五島藩主が大村藩主に開墾農民の移住を頼んだのがきっかけだ。1797年以降、長崎市外海地区から移り住んだ三千余人は弾圧の中で信仰を守り続けていた潜伏キリシタン。希望の地で待っていたのはやはり弾圧と貧困だった。島々の教会を巡ると、信者が守り継いだ堅固な信心と、受難の歴史を忘れまいとする決意が伝わってくる。>> 続きを読む
「ド・ロさまは外海の太陽だ」。禁教下の取り締まりを逃れ、多くの潜伏キリシタンがいた長崎市外海地区のカトリック信者たちは、敬愛を込めこう口にする。
フランス人宣教師のマルコ・マリ・ド・ロ神父。禁教が解かれて間がない1879(明治12)年に39歳で外海に赴任し、74歳で亡くなるまで、異国の農漁民を救おうと幅広い活動を続けた。角力(すもう)灘を臨み、遠藤周作の「沈黙」の舞台にもなった里は、今も神父に見守られていた。>> 続きを読む
真っ赤なバンダナを頭に巻いた松坂慶子さんとコート姿の緒形拳さんが、赤れんがの教会に足を踏み入れる。やがて教会の十字架やキリシタン墓地は夕日に染まり―。
檀一雄原作の映画「火宅の人」(1986年公開)のワンシーンに、小値賀町・野崎島にある旧野首教会が登場する。故深作欣二監督は、ひと目見てここでの撮影を決めたという。独特の雰囲気を放つれんが造りの教会を設計したのは「教会建築の父」鉄川与助(1879―1976)。心血を注いだ教会の数々は今も輝きを失っていなかった。>> 続きを読む
まばゆい繁栄と重い弾圧の歴史があった。
16世紀後半の戦国時代、島原半島南部に西洋文化が花開いた。1580年には南島原市に日本初の神学校「有馬のセミナリヨ」が建てられ、ここで学んだ4人の少年が天正遣欧少年使節としてローマに渡った。豊臣秀吉が伴天連(ばてれん)追放令を下した87年には、国内にいた大勢の宣教師が身を隠したという。この地のキリシタン文化には1637―38年の島原の乱で“終止符”が打たれたが、400年近い時を経て当時の歴史を見直す動きが始まっている。>> 続きを読む
九十九島最大の島、佐世保市黒島。江戸時代、キリスト教弾圧から逃れるように生月(平戸市)や五島、外海(長崎市)などにいた信者がこの島に移り住んだという。ポルトガル語で十字架を意味する「クルス」島がなまり「黒島」になった―島の信者らの間ではそう言い伝えられている。
1550年に県内で初めてポルトガル船が入港し、宣教師フランシスコ・ザビエルも訪れた平戸。ザビエルの布教活動から始まった長崎のキリシタンの歴史が島の名前に刻まれたかのようだ。>> 続きを読む
長崎市であった2つの事件の知らせは世界を駆け巡り、カトリック総本山のローマ法王にも届けられたという。
1つは豊臣秀吉の命令で京都や大阪で捕らえられた宣教師ら計26人が長崎で処刑された「26聖人殉教事件」(1597年)。もう1つは、約250年の弾圧に耐えた潜伏キリシタンが完成直後の大浦天主堂で信仰を告白した「信徒発見」(1865年)だ。
禁教が解かれたのは「信徒発見」の8年後。長崎に信者が戻り、空に教会の十字架がよみがえった。>> 続きを読む

























