
友納君が体の異変に気付いたのは昨年の7月上旬だった。発熱が続き、おなかの右側に違和感も感じた。
久留米大学病院を受診すると、医師に「すぐ入院してください」と言われた。悪性リンパ腫だった。検査の結果を聞くために診察室に入ったら、既に病名を告知された両親が泣いていた。医師に「野球できますか」と聞こうと思ったが、怖くてできなかった。
所属する野球部は中体連の真っ最中だった。30人近くいる2年生で、ベンチ入りした数少ない1人。あきらめきれなかったが、もらっていたユニホームを部に返した。「何で病気はおれを選んだの」。悔しくてたまらなかった。
つらい闘病生活が続いた。がんが転移していないかを調べる検査は腰に針を刺す。激しい痛みが伴った。抗がん剤の点滴を打てば、吐き気や嘔吐(おうと)、頭痛が襲ってくる。食べ物は口を通らない。副作用で髪の毛やまゆ毛が抜け、体重は増えた。
退院したのはクリスマス(12月25日)。入院して半年がたっていた。年が明けると学校に戻り、少しずつ部活動にも参加したが、体力がついていかない。免疫力が低下しているため月に2―3回は発熱し、学校を休まなければならなかった。頑張りたいと焦る気持ちに体がついていかず、落ち込んだ。
そんなときだ。4月上旬、自宅のテレビで選抜高校野球の決勝戦を見ていた。片方の投手に目が止まる。ピンチになれば必ず気合の入った球を投げていた。延長戦で敗れたが、そのピッチングは目に焼きついた。日大三高(東京)の山崎福也(さちや)という名前だった。
しばらくして、西日本新聞の医療面(4月26日朝刊)に「小児がん 闘病は1人じゃない」という記事が載っているのを母親に知らされた。山崎選手が2年前に脳腫瘍(しゅよう)を患ったことも書かれていた。「僕は乗り越えた、勇気づけたい」と見出しにある。「あの人も同じ境遇だったのか」と驚いた。山崎選手に手紙を書くことにした。新聞社を通して山崎選手に届けられた。
〈西日本新聞の山崎選手の記事を読んで、小児がんでも野球を頑張っている人がいるんだなと、とても励まされました。(略)僕もたくさん努力して甲子園に行きたいと思いました〉
日大三高が5月下旬、遠征で熊本市に来ることを新聞記者に教えてもらった。体調は思わしくなかったが、家族に頼んで熊本に駆けつけた。山崎選手の投球は、テレビで見るより迫力があった。

試合後、面会する時間をつくってくれた。「手紙ありがとう。渡すものがある」と山崎選手。2枚のサイン色紙と手紙をもらった。色紙の一枚は甲子園準Vナインの寄せ書き。もう一枚には山崎選手が座右の銘を書いたものだった。
思い切ってカーブの投げ方を聞いた。山崎選手は実際にボールを使ってカーブの握りを教えてくれた。帰りの車の中で手紙を読んだ。こうつづってあった。
〈(高校)入学時に病気が見つかり、一時は目の前が真っ暗になり、もう野球ができないかと弱気になった時期もありました。甲子園という目標があったから、手術に負けずに頑張れたのだと思います。(略)友納君 何事にも負けず頑張ってください〉
山崎選手と会ってから友納君は、毎日昼休みや放課後を使って投球練習をするようになった。中体連の試合には出られなかったけれど、ベンチから声をからしてチームメートに声援を送った。
続いていた発熱は、いつの間にかなくなった。化学療法を終えてしばらく経過したからという理由もあるが、気持ちが前向きになって免疫力が高まることもある、と医師に教えてもらった。
夏の甲子園を目指す日大三高は7月24日、西東京大会の準決勝で敗れた。友納君にとっても、甲子園へ応援に行くという願いはかなわなかったが、きっとプロか大学に行って大舞台のマウンドに立つに違いない。再会はそのときまでお預けだ。「病気は嫌だったけど、山崎選手に会えて幸せだった」と心から思う。
「頑張る時は いつも今」
山崎選手からもらった色紙は、朝一番に見ることができるよう部屋のベッドに飾っている。今は志望する高校合格を目指して毎日塾通いだ。高校で野球部に入り、試合で山崎選手直伝のカーブを投げることを夢見ての、日々の勉強である。
【写真説明1】日大三高の山崎福也選手と友納祐貴君=熊本市の藤崎台県営球場
【写真説明2】山崎選手が友納君に手渡した色紙。座右の銘が書いてある
=2010/08/02付 西日本新聞朝刊=




